存在の謎は数学の必然性で解決するか

──何故、何もないのではなく、何かがあるのか──

充足理由律という考え方があります。

全ての事には何故そうなのか、理由が存在するという考え方で、私たちは普段、このような考え方を前提にして生きているのではないでしょうか。
文明の発展にも、根底にはこの考え方があり、特に科学の偉大な発見はそれを突き詰めて来た人々によって成し遂げられて来たと思います。

私たちが普段何気なくこの世界において適用している、充足理由律と呼ばれるルールに従って物の原因を突き詰めて行けば、最終的に「何故そもそもこの世界が存在しているのだろう」というところに行き着くのではないでしょうか。
それは「存在の謎」とも呼ばれ、「何故、何もないのではなく、何かがあるのか」という形で問われ、古くから哲学者や物理学者、天文学者の間で議論されてきました。

何も存在しなければ必要な説明はなく、とても単純に思えます。それに比べて何かがが存在するという事には説明が必要で(必要ないと考える人もいますが)、更に特定の何かだけが存在することはとても恣意的に──人智を超えた物の存在を想定せずに説明するのが難しく──感じます。
しかし実際には、この世界には何かが存在しています。

この世界は高度な知的生命体が作り出した仮想現実の中なのではないかと考える、シミュレーション仮説と呼ばれる説もありますが、例えそうであったとしてもシミュレーションの世界自体もやはり「何か」であって、存在の謎という問題には答えられません。
それは量子力学相対性理論の融合を試みる超弦理論であっても同じです。
この世界を説明できるたった一つの方程式が発見されたとしても、何故その方程式なのか、何故それが存在するのかといった疑問からは逃れられないでしょう。

アインシュタイン一般相対性理論から、この宇宙は日々拡大を続けている事が示唆され、ハッブルの観測によって実際に確かめられました。
そして、時間を遡ればこの宇宙は有限の過去に、ある一点から空間ごと誕生したのではないかと考えられ、その後、それを裏付ける宇宙マイクロ波背景放射が観測された事からも、この説は確かなものになりました。
しかし、ビッグバンと呼ばれるこの現象が何故起こったのかはわかっておらず、ビッグバンも存在の謎を解決する第一原因にはなり得ません。ビックバンによって時間も空間と一緒に生まれたと考えられていますが、時間の始まりや時間の流れ自体、恣意的で説明の難しい物です。

また、充足理由律が適用出来なくなるのは、存在の謎だけに限りません。
量子のようなミクロの世界ではある一つの粒子の正確な位置、速度を二つとも測定する事は原理的に出来ないのです。これはハイゼンベルク不確定性原理といい、数学的にも正しい事が証明されています。
粒子の位置を正確に予測する事は叶わず、ミクロの世界は確率に支配されています。(これを避ける為に、観測者ごとに世界が枝分かれしていくと考える、多世界解釈というものがあり、観測ごとに一つの結果に定まると考えるコペンハーゲン解釈と共に、今なお議論が続いています。)

結局のところ、何も無い所から何かが生まれる事やミクロの世界が確率に支配されている事(真のランダムなど存在するのでしょうか)、はたまた時間が流れていく事、何かが変化していく事は全て恣意的に思えます。

──神が創ったのか──


一神教を始めとする多くの宗教においては、世界は神が創ったと考えられている為、この問題は存在しません。(では何故、神自身は存在しているのかという疑問が当然湧きますが、一神教では神の存在は「自己原因」、ラテン語では「カウサ・スイ」と呼ばれ一応の解決が図られています。)

パスカルの賭けと呼ばれるものがあります。
神を信じて敬虔に生き、実際には存在していなかったとしても失う物は少ないが、神が存在しないと考えて生き、実際には存在していた場合、神によって裁きを受けるかもしれず、失う物が大きい。神が存在するのかしないのかがわからないのであれば、存在する方に賭けた方が良いという物です。

たとえ特定の宗教を信じていなくとも、存在の謎や時間の始まりに答えがないのであれば、第一原因としての、人智を超えた物の存在を否定する事は出来ないのではないでしょうか。ならば、存在の謎に答えられないのであれば、パスカルの賭けに従い神を信じた方が良いのでしょうか?神を持ち出さずとも存在の謎を解決する方法はないのでしょうか。

──数学的宇宙仮説──

つまるところ、存在が謎であるのはそれが恣意的に感じられるからです。では存在が必然的であるというのはどうすれば証明出来るでしょう。
私は、世界が数学そのものであると考えれば、存在の謎や、その他の恣意的に感じられるが答えの出ていない多くの問題を解決できるのではないかと考えました。

自然科学は余りにも数学的で、何故ここまで数学で説明出来るのだろうかという問題があります。20世紀の物理学者ユージン・ウィグナーの『数学の理不尽なまでの有効性』という有名な論文があり、暫し引用され、議論されています。

実際のところ、何故、数学はここまで世界を上手く説明できるのでしょうか。そもそも数学は人間が発明したものでしょうか。それとも数学は人間とは無関係に存在しているのでしょうか。

数学的実在論と呼ばれる考えでは、自然数同士の関係性や幾何学の諸性質であったり、数学の諸々の公理や定理といった数学的事実は人間とは無関係に、独立して実在しており、人間はそれを発見しただけであると考えます。

さらに、物理現象が数学で全て記述できるのであれば、数学と現象を別にして考える必要はないのではないか、外的実在として数学が存在するのみならず、世界は数学そのものなのではないか、という説があります。それが数学的宇宙仮説と呼ばれる物です。

物理学者のマックス・テグマークは著書『数学的な宇宙』において、あまりにも数学がこの世界の現象を説明できる事から、「ある方程式が『私たちの外的実在』と『ある数学的構造』のどちらをも完全に記述しているなら、私たちの外的実在とその数学的構造を区別する理由がなく、同じ一つの物なのではないか」と主張し、この世界は数学そのものであると結論づけています。

数学的実在論では人間の意識とは独立に数学が実在していると考えると先程述べましたが、数学的宇宙仮説は更に一歩踏み込んで、そもそも全ての事物が──生命や人間の意識も含めて──数学そのものなのです。

私自身も、世界が数学そのものであるならば、存在の謎や、恣意的に感じられる物の、答えが出ていない他の多くの問題(時間や運動、不確定性原理など)にも答えられるのではないかと考えました。

──何もないとはどういうことか──

存在の謎に話を戻すと、そもそも何もない世界とはどのような物でしょうか。
この世界において無であると考えられている真空。辞書(『大辞林』第三版)では真空とは「物質がまったく存在しない空間」だとされています。
しかし、実際にはあらゆる粒子を取り除いたとしても、何も無いとは言えない事がわかっています。

不確定性原理によると素粒子の位置を正確に測定しようとすればするほど、速度が不確かになり、速度を正確に測定しようとすればするほど、位置が不確かになります。
実は同じ様な事が、時間の長さとエネルギーの値においても当てはまり、素粒子のエネルギーを正確に測定すればその持続時間が不確かになり、時間を正確に測るとエネルギーの値が不確かになります。
真空においても極めて短い時間であればエネルギーはどのような値でも取る事が可能であり、素粒子が短い時間に生成と消滅を繰り返しています。これは真空のゆらぎと呼ばれる現象で、私達が何もないと考えている真空は絶えずうごめいているのです。
ですが、この世界に「無」が存在しないのは当たり前かもしれません。私達は既に何かがある世界に生きているのだから、それはノートの文字を幾ら消したところで紙が残るのと同じなのかもしれません。

フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、「無」は既に存在している物を頭の中で消し去った結果得られる概念であると考えました。つまり「無」とは非存在のことであり、存在の方がより基本的で単純なものであると主張しました。

しかし、ベルクソンが主張する通りの「無」を頭の中で考える事は出来ます。視覚的な情報が無く、音も感触も無く、地球も太陽系も宇宙も無い真っ暗な世界。ここまでは割と簡単に想像出来るかもしれません。時間はどうでしょうか。時間が存在しないというのを想像するのは難しいかもしれませんが、時間というのは何かが変化していく事だと考えるなら、何も変化が起こらない世界を考えるのは容易いのではないでしょうか。

──数学という概念──

では数学はどうでしょうか。何も無いという事は、数学的事実そのものも存在しないという事になってしまうのでしょうか。
例えば、三平方の定理や三角形という物を規定する「同一線上にない三点と、それらを結ぶ三本の線分からなる図形」といった諸々の性質も、何もないのだとしたら存在しないという事になってしまいます。それは果たして可能でしょうか。

私がどうしても頭の中で消すことが出来ないのがこれらの数学的事実です。
数学という概念が、先程も述べた様に独立に実在しているのなら、それは存在の有無に左右されない普遍的真理なのではないでしょうか。そして、数学が存在する世界とイコールであるならば、数学の実在が必然的である様に、世界の存在も必然的だと言えるのです。

デカルトはあらやる物の存在を疑った結果、それでも疑いきれない自我から思考をスタートさせました。それと同じ要領で、全ての物の存在を否定した上でそれでも無にできない物が「数学」なのではないでしょうか。数学は必然的に実在する物であり、それは存在する世界そのもの、あるいはそこから創発されるものなのではないでしょうか。

数学が存在している物そのものであるならば、特定の世界だけが実在しているのではなく、数学的に可能な世界は全て実在しています。

可能な世界が全て実在しているという理論では、哲学者のデイヴィッド・ルイスが唱えた様相実在論という物があります。それは、考えうる全ての世界が私達の世界と同様に実在しているというもので、特定の世界だけが実在していることの恣意性を排除しようと試みるものです。

私も考えられる可能世界が全て実在していると考えていますが、それは数学で記述可能な物に限られると考えています。それは、これから述べるように、時間や運動は主観的な意識から創発される物であって、基本的な物ではないからです。

──時間は創発される物である──

時間が流れるということはとても不思議な現象なので、古くから哲学や物理学などを中心に、様々な議論がなされてきました。また、時間の始まりや運動の根本原因は存在の謎にも関わる問題でもあります。

現在は、”何故”現在であって、過去や未来ではないのでしょう。これは現在の特権性という問題です。私たちは直感的に、過去は過ぎ去ってしまっていて、未来はまだ作られていないと考えるのではないでしょうか。
それに対して、過去や未来は現在と同じ様に実在しているため、現在は特別な点ではないという考え方があります。これは直感とは異なるため、なかなか受け入れられないかもしれません。
しかし、そこで大事なのは、私たちは確かに時間の経過を感じ、物が動くのを目にしますが、それらは全て現在の自分が過去の記憶から感じる物だという事です。

世界五分前仮説という物があります。世界は五分前に、大昔から存在している様な証拠と共に出現したのかもしれないという物です。哲学の思考実験の一つであり、バートランド・ラッセルによって提唱されました。そんなはずは無いと思われるかもしれませんが、この説の言わんとしている事は、その様に考えたとしても世界の構造や人々の認識に何の影響も与えないということです。たとえばこの五分前は一分前でも一秒前でもいいのです。私たちにとって過去は現在の記憶によるものです。私たちを取り巻く周囲の環境にあっても、過去の痕跡が、今現在、そこに存在しているのであって、過去そのものを直接目にしている訳ではありません。

であるならば、この瞬間の現在のみが私たちが実在していると認識できる物であり、現在が過去や未来と直接何らかの形で繋がっていたり、現在が絶えず変化していくなどと考えなくとも、静止した現在がばらばらに実在し、その中の意識を持つ生命体がそれぞれ現在の感覚を持ち、時間の流れや物の動きを感じていると考えられないでしょうか。
また、アインシュタイン相対性理論によって、万人に共通の、客観的な現在などというものは存在しないのではないかという議論がありますが、現在はそれぞれの意識が持っている感覚であり、客観的な現在は必要ないのではないでしょうか。

また、そうであるならば、時間変化のない構造で数学で表現できないものは考えられないのではないでしょうか。数学的でない動きや変化は考えられたとしても、数学的でない構造というものは考えられません。この事からも、私は可能世界の中でも数学的に可能なものだけが存在していると考えています。

──意識に時間の流れは必要か──

意識には整合性の取れた過去の記憶と、未来に向かって自由に思考できるという予感さえあればいいのではないかと私は考えています。そうであるならば、この世界に基本的な物としての時間の流れや動きが存在している絶対的な必要性はなく、過去や未来と繋がっていない瞬間の現在がばらばらに独立して存在していると考えても、私たちの主観的な認識を説明出来ると思います。むしろ余計に説明を増やしてしまう──そして恣意的な──時間の流れや運動は意識から創発されるものであり、基本的な物ではないと考えた方が単純ではないでしょうか。また、全ての瞬間が、変化する事も消え去る事もなく独立に存在しているのならば、時間の始まりや運動について考える必要もなくなります。

──無限に実在する──

自然数が無限に存在している事からも、数学的に可能な世界は無限に実在しています。
世界が無限のパターン実在しているのならば、どんなに起こりそうもないような事もどこかの世界では実現している事になります。生命のセントラルドグマ(DNAからRNA、タンパク質という生命の基本構造)がどのように生まれたかは未だにわかっていませんが、たとえ生命の誕生の瞬間が、よく例に出される「チンパンジーがタイプライターを打っていたらそれが偶然シェイクスピアの文章になった」というような事でもそれはどこかの世界では必ず起こっている事なのです。

また、ひとつの数学的構造に限って言えば、その構造は有限であると思います。
数学は計算可能でなければならず、無限が含まれているならば計算不可能となってしまい、それは数学とは呼べません。
つまり、ひとつひとつの世界は無限を構造に含みません。これは過去というパラメーターにも当てはまり、先ほど意識には過去が必要であると述べましたが、過去(というパラメーター)は必ず有限でなければならないのです。この様に考えれば、私たちの宇宙が有限の過去を持っているということも必然的なのかもしれません。

──全知全能は不可能──

数学的な概念としての世界は無限に考えられる事からも、それらを全て把握する事は出来ません。また、運動が意識によって作り出される物ならば、何者にも恣意的に物体を動かす事は出来ません。つまり、全知全能である事は不可能なのではないでしょうか。

──過去の曖昧さ──
 
テグマークは著書『数学的な宇宙』において不確定性原理の解釈としてヒュー・エヴェレットの多世界解釈を支持していましたが、時間や運動が意識から創発されるものであると考えると、時間発展に伴って世界が枝分かれしていく多世界解釈のような物を考えるのは難しくなります。
世界は時間発展するごとに異なる世界に枝分かれしていくのではなく、我々の住む宇宙の物理法則では”同じ過去”を複数の考えられる現在と共有しているのではないでしょうか。
不確定性原理は私たちの世界における、過去の曖昧さによるものであり、観測者に直接影響を及ぼさないような部分においては、現在を作り出すような量子の状態が複数考えられるのではないでしょうか。

──哲学的ゾンビ──

私たちは意識というフィルターを通す事でしか、外界を認識する事が出来ないので、自分が認識している外的な世界が本当に実在しているのかを確かめる事ができません。そうすると、自分の意識のみが実在しており、外的な世界は意識が作り出したものかもしれないという疑いが生まれます。
また、他者に自分と同じように意識があるのかどうかも同様に確かめることが出来ません。意識がある様に見えていたとしても、それは外見上その様に見えるだけで、実際には意識がないという可能性もあります。これは、哲学的ゾンビと呼ばれるものです。

自分の意識のみが実在しているというのは充分に考えられる事で、全てのパターンの数学的世界が実在しているという事は、その様なパターンも確実にあるという事になります。
しかし、それは逆もまた然りで、外的実在や他者の意識が存在している世界も確実に実在しているという事でもあります。今、この瞬間の世界がどのようであるのかは、夢の中の様にはっきりとそれとわかる証拠がない限り、判別出来ないでしょう。考えられる様な世界のあり方は他にも複数あり、自分の意識が認識出来る範囲を超えた事はわからないのではないでしょうか。
ただし、現在が過去や未来とは独立に存在しているのだとすれば、静止した現在という瞬間の意識が、静止した瞬間の外界の実在やそのあり方を考えるのは無意味な様に感じます。(全て実現しているのだから尚更です。)

──幻想ではない──
 
最後に、私は時間や運動などは基本的な物ではないと考えていますが、それはそれらが幻想であると考えているという事ではありません。数学こそが基本的な物であるという事であって、時間や運動だけでなく、生命や自由意志などは、数学、そしてとても複雑な数学である意識から創発されるものとして存在しているのではないでしょうか。